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仁賀屋
  二加屋の歴史 会社概要 採用情報
悠久の歴史が物語る信頼のブランド・・・
二加屋の歴史は江戸時代に味噌・醤油・酢卸・油製造を行う御用商人として始まりました。
 
1600年代 1700年代 1800年代 1900年代 現代
西暦 邦暦 出来事
    岡本将男様 提供  尾道市 桜町
「備後の魁」生酢、味噌、醤油店の回
尾道 本久保町 仁加屋 直次郎
2006年 平成18年12月 広島県尾道美術館 館長 森重 彰文 様  訪問
2007年 平成19年3月12日・13日 広島県竹原市立竹原書院図書館 
図書館長 寄能 道子 様 訪問
司書 幸野様 に大変お世話になる。
広島県立文書館 文章調査員 菅 修二郎 様に照蓮寺、仁賀村のダムに水没予定で、すでに引越しした仁賀村10軒弱を外から見学後、車にて東広島新幹線駅に送ってもらう「ありがとうございました!」

尾道市史 下巻 昭和15年3月30日
発行所 尾道市役所 印刷者 須磨 勘兵衛

尾道市ホームページ
第51図 生酢・味噌・醤油店の図(「備後の魁より」)
※尾道市桜町岡本将男氏提供
〔瀬戸内地区の塩浜業〕雑穀、干鰯、灯油を自ら廻船を持ち大阪地区に運び帰り船はしこう品を積んでの商いが大繁品であった
新修 尾道市史 第四巻 この頃より、竹原市史に記載され始めました


江戸:仁賀屋の由来と歴史 「広島県竹原市」

江戸時代の元禄元年(1688年)仁賀屋勘太郎(仁右衛門)は「江戸廻御用塩差配」を仰せつかって家業は雑穀・灯油・干鰯・綿類の商事、及び「塩浜業」をし自ら廻船を持ち、諸々商品を売買している。

宝永2年(1705年)仁賀屋勘七は西廻り海運の展開と廻船業10端帆二艘所持し、同時に問屋業を兼ねて「竹原の塩」の美味しくて評判の塩で「たけはらがきた」と喜ばれていた。
竹原市は、広島市の東隣、新幹線東広島駅と竹原志の直線上に、現在も仁賀は上仁賀・中仁賀・下仁賀として地名に記されている。

現在の広島県竹原市あるいは尾道市在郷の仁賀屋の屋号の初期商人層の系譜をひくものであります。「備後の魁」として尾道市立図書館に「仁賀屋 杉本直次郎」が記載されています。それ以前の竹原市史 資料編に仁賀屋の資料が多く存在しておりました。

竹原市ホームページ
http://www.city.takehara.lg.jp/

たけはら
竹原塩田

竹原重要伝統物保護地区

照蓮寺

照蓮寺ホームページ

照蓮寺アクセス



仁賀レンゲ祭り

西暦 邦暦 出来事
1688年
1703年
元禄元年
元禄16年

元禄文化
仁賀屋 甚太郎(仁右衛門) 加茂郡仁賀
「江戸廻御用塩差配」を仰せつかっている。家業は雑穀、灯油、干鰯、綿類の商事 及び「塩浜業」をし自ら廻船を持ち、諸々商品を売買している。零細な買占商人として存在 在郷商人の早く成功した存在。
1698年 元禄11年8月21日 にかや 甚太郎
商人所持 木綿扱い芋員和書上覚一同 壱貫四百目寛文、元禄期には、塩浜業、塩問屋、質屋、酒造業等を営み高館の義経堂 町の浜役人を勤めている。いわば初期商人層の系譜をひくものである。
―竹原市史 第4巻 史料編(二)昭和41年3月25日発行(1966年)
編集者 西村嘉助、渡辺則文
発行所 竹原市役所
1703年 元禄16年 曽根崎心中(近松)
     
1714年 正徳4年8月21日 貝原益軒(85才)
1716年 正徳6年 仁賀屋
零細買占商人から享保以降
「江戸廻御用塩差配」に出世
1705年 宝永2年 仁賀屋 甚七
西廻り海運の展開と廻船業
10端帆二艘所持し、同時に問屋業を兼ねていた讃州高松へ商売のため出船
1716年 享保元年~
享保8年
仁賀 壱宇
鳥越山延命寺、阿弥陀堂 梁三間桁三間、茅茸、村物仏に而御座候。伹ム番僧真宗へ豊田郡入野村 長照寺弟子観了相勤居申候国郡志御用二付 下調出帳
1716年~ 享保 元年以降 北国廻船を主対象とする「引受方」の問屋商事が享保以降の新商人層にある。
1718年 享保3年 高原 惣絵図
ひの口町長47間の本川の橋の対岸土手長45間の通りににかや 甚太郎の自宅あり
1718年 享保3年 寺子屋普及
1719年 享保4年2月8日 にか 絵九郎
御用銀請取覚、一銀六百目伹(三宝判銀弐百め 同銀百七五匁一包)
 1719年 享保4年4月13日 仁賀屋 徳左衛門
本人より無届けに塩積み出す1件
-竹原市史 第5巻 史料編(三)昭和42年9月30日発行(1967年)
編集者 西村嘉助、渡辺則文
発行所 竹原市役所
 1719年 享保4年2月8日 にか 絵九郎
御用銀請取覚、弐百目 四宝銀
にかや 甚太郎
御用銀請取覚、三百目 伹 三宝銀 百八拾7匁5分
1722年 享保7年11月18日 にかや 甚七
委細御 口上二而茂被仰聞承知仕申候 堅相守可申候
為見判形仕申候
1726年 享保11年12月 仁賀ヤ 徳左衛門
委細御 口上二而茂被仰聞承知仕申候 堅相守可申候為見判形仕申候
1730年 享保15年正月 仁賀屋 甚太郎・賀茂屋 直十郎
塩浜役人浜数(竹原塩田誌 塩政一)
塩問屋当書上
1748年 延享5年 にかや 甚七
商人人別 商人船持呼出し人別心得記置もの也西廻り海運 舟の持主は10端帆あり その内二艘所持して問屋業を兼ねていた。
1751年 宝暦元年 吉宗が死去
1753年 宝暦3年12月15日~18日 仁賀屋 加七
賃金闘争 参加浜子の行動闘争は失敗に終り、要求は全然いれられなかったが徳川吉宗労働運動の前史として画期的な事件であった
―竹原市史 第1巻 概説編 昭和47年3月31日発行(1972年)
編集者 西村嘉助 渡辺則文 道重哲男
発行所 竹原市役所

竹原市 扁額 「龍頭山・照蓮寺」 参照
照蓮寺 照蓮寺

広島の東広島市の東と南側の瀬戸内海に面した位置にあり竹原市の町並み保存地区のすばらしい歴史のわかる道を北に500メートル北側にあり、黄色く文字が風水で薄くなった「仁賀屋」と書いた墓石が、その墓地に20以上ありました。
一部山積みされたところにもたくさんありました。竹原市役所前からは、東に向い頼山陽広場を左に折れ住吉神社を右折し、町並み保存地区を北上500米右側。
右に竹鶴酒造、普明閣、西方寺、歴史民俗資料館おかかえ地蔵、まちなみ竹工房、頼惟清旧宅、恵美須社(胡堂)酒造り用井戸、そして照蓮寺と続いております。
1753年~
1819年
宝暦3年~
文政2年
仁賀組
仁賀は、賀茂川本流域一帯の山地部に小河谷平地の分布する村落の展開


明治:「広島県尾道市」
悠久の歴史が物語る信頼のブランド・・・
二加屋の歴史は江戸時代に味噌・醤油・酢卸・油製造を行う御用商人として始まりました。

創業
江戸時代の元禄元年(1688年)仁賀屋勘太郎(仁右衛門)は「江戸廻御用塩差配」を仰せつかって 家業は雑穀・灯油・干鰯・綿類の商事、及び「塩浜業」をし自ら廻船を持ち、諸々商品を売買している。
宝永2年(1705年)仁賀屋勘七は西廻り海運の展開と廻船業10端帆二艘所持し、同時に問屋業を兼ねて「竹原の塩」の美味しくて評判の塩で「たけはらがきた」と喜ばれていた。
竹原市は、広島市の東隣、新幹線東広島駅と竹原志の直線上に、現在も仁賀は上仁賀・中仁賀・下仁賀として地名に記されている。
二加屋ホームページ

第51図 生酢・味噌・醤油店の図
(「備後の魁より」)
※尾道市桜町岡本将男氏提供
[瀬戸内地区の塩浜業]雑穀、干鰯、灯油を自ら廻船を持ち大阪地区に運び帰り船はしこう品を積んでの商いが大繁品であった
「備後の魁」生酢、味噌、醤油店の回
尾道 本久保町 仁賀屋 直次郎
竹原市ホームページ

歴史のあゆみ
江戸時代に家柄あるいは功労によって、平民が名字御免帯刀を許されるという事は、江戸時代の中期頃より世に貢献したという事である。
調査により尾道から西の現在の広島県 竹原市の北西地域、新幹線東広島駅と竹原市の継ぐ上仁賀、中仁賀、下仁賀と地名のつくところがあります。
昔から問屋業を商売とし受け継ぎ尾道の本久保町 仁賀屋直次郎で、「備後の魁」として盛えた。
1759年 宝暦9年7月14日没 分家初代 山田屋伝兵衛
1793年 寛政5年12月 仁賀屋伝蔵者
仁賀屋勘右衛門 手代二而 豊田郡河内村百姓 清三郎忰二御座候 仁賀屋勘右衛門 父甚太郎・・・
-竹原市史 第3巻 史料編(一)昭和39年12月25日発行(1964年)
編集者 西村嘉助、渡辺則文
発行所 竹原市役所
1822年 文政5年3月 尾道町の地図
大規模工事で32年の歳月と延10有余万人の人夫、巨万の費用を投入
1827年~
1829年
文政10年9月~
文政12年
仁賀屋 正右衛門
竹原港を再築
小林一茶加茂川の水流を導入するのに、みなとの改築工事は横島山を開墾し、大規模工事で32年の歳月と延10有余万人の人夫、巨万の費用を投入西廻海運の隆盛にのった中継的問屋商事を中心に港、町方は新しい繁栄期を迎え、北前船、九州船と交易している。
1827年 文政10年9月 仁賀屋 正右衛門・浜大工 市之助
比段御承知被成運可被下候
 1828年 文政11年正月 仁賀屋 甚太郎
江戸廻 御用塩差配 諸国万中問屋七軒のうちの一つ
1829年 文政12年12月 賀茂郡 御役所 御用塩差配 大俵塩壱万俵 但五斗壱升入 (元禄十一年~十二年)元禄年間商人所持品目、量目
正徳五年(1715)→藩の強い統制下
1838年  天保9年 没 仁賀屋 杉本 直助
 1880年 明治13年 没 仁賀屋 政兵衛
養子 勇平(高橋)
 1887年 明治20年8月14日 没
仁賀屋 杉本 直次郎
浄泉寺の墓地の一番地に直次郎、勇平の墓
1893年  明治26年 誕生 仁賀屋 杉本 常次郎(実父)
 1906年 明治39年11月26日 没 仁賀屋 杉本 勇平 没
盛組取締人 港組取締役、盛組取締役、商組取締役
一致協力永世栄降の事 第21条
 1938年 昭和43年8月 没 仁賀屋 杉本 常次郎(実父)
現在の広島県竹原市あるいは尾道市在郷の仁賀屋の屋号の初期商人層の系譜をひくものであります。
「備後の魁」として尾道市立図書館に「仁賀屋 杉本直次郎」が記載されています。
それ以前の竹原市史 資料編に仁賀屋の資料が多く存在しておりました。
浄泉寺 (尾道市西久保町) 浄泉寺(尾道市西久保町)
鐘は戦時中に一度供出されましたが、奇跡的に戻ってきたそうです。

広島県 尾道、竹原、仁賀
以上の文字に心当りはありませんか…? 親戚かも…
浄泉寺 (尾道市西久保町)
浄泉寺は尾道駅から東に1.5kmほど離れたところにある、浄土真宗のお寺です。寺の前の道路は西国寺の参道でもあるため、国道から参道に入ってしまえば道は分かりやすいです(参道に入ってすぐの東側。参道をまっすぐ行くと西国寺)。

尾道ブログ ヘイジ様 参照
浄泉寺は、天文12年(1543)の創建
大きな本堂の屋根の上には、畳16枚分ほどの鬼瓦をのせているそうです。仁賀屋直次郎は、浄泉寺本堂欄間の桧造りで寄贈。本堂の分は焼失を免れて現存している。本堂の大きさでは尾道一だそう。けっこう圧倒されますよ。
2009/7/22(水)AM9:05~ 
尾道市 浄泉寺 小学生合宿中
1887年 明治20年8月14日没
浄泉寺の墓地の一番地に直次郎、勇平の墓
二加屋 杉本直次郎・杉本勇平の墓

大きな地図で見る

浅野図書館参照
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